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バレーボールあれこれ(登場人物は敬称略とします) 

○ 中学時代(岡山市立岡北中学校)

バレーを始めたのは1961年、中学1年の2学期、担任の先生とバレー部顧問の先生に勧められ入部しました。最初は、現天皇陛下と美智子妃(1960年ご成婚)の馴れ初めがテニスということで非常に人気となったソフトテニス部に入りましたが、1学年が850人もいる団塊の世代で新入部員が100人も入り2面しかないコートで練習することなく辞めました。マンモス校だったのでどのクラブも盛況で県大会で多々優勝していました。バレー部も数年間県大会優勝の常連校でした。当時のバレーは9人制でアウトコートだったので、真夏の炎天下でも汗と土でドロドロになるまでやったものです。しかも、バテルから水は飲んではいけないという理不尽なものでした。今では膝を痛めるからしない、うさぎ跳びもやっていました。学校内で「東洋の魔女(日紡貝塚)」の映画がありそれを見た後、回転レシーブを皆で練習したものです。その映画がYouTubeに載っていたのでご覧ください。http://www.youtube.com/watch?v=krbJ1MBYXTo                   
赤鬼と言われていた小寺先生が石井中学へ転任となりそこで、元全日本のエースアタッカー白井貴子(180p
1976年モントリオール五輪では金メダル)(石井中学→倉敷片山女子高(現倉敷翠松高等学校)→倉紡倉敷→日立武蔵)を教えたそうです。

○ 東京オリンピック

1964年高校1年の時、東京オリンピックがあり、女子バレーは東洋の魔女(日紡貝塚)主体で決勝では日紡貝塚の選手のみで戦い初の金メダルを取りました。日本とソ連による決勝戦は、テレビ各局で生中継され、NHKの視聴率は平均で66.8%(関東地区。スポーツ中継では歴代1位)、最高で85%にまで達しました。大松博文監督・河西昌枝(セッター174p)・磯辺サダ(173p) ・谷田絹子(168p)・半田百合子(166p)・松村勝美(173p)・宮本恵美子(172p)・松村好子・佐々木節子(173p)・篠崎洋子(171p)・藤本佑子 (154p)(以上日紡貝塚)・近藤雅子(168p倉紡倉敷)・渋木綾乃(165pヤシカ)。今の全日本女子メンバーの身長は180p以上の選手が多いが、当時は170p前後のアタッカーだったのです。世界の主流は攻撃偏重でしたが、大松のモットーは「守備は最大の攻撃なり」と考え、その象徴が「回転レシーブ」でした。
私が学生時代、半田百合子さんは京都産業大学男子バレー部の監督をしていて男子学生を怒鳴りながらしごいていました。

○ オリンピック成績


 開催年 開催都市     金メダル  銀メダル 銅メダル 
1964  東京  男子 ソ連  チェコ  日本 
女子 日本  ソ連  ポーランド 
1968年  メキシコシティ  男子 ソ連  日本  チェコ 
女子 ソ連  日本 ポーランド 
1972年 ミュンヘン  男子 日本   東ドイツ ソ連 
 女子 ソ連  日本  北朝鮮 
1976年  モントリオール 男子 ポーランド  ソ連  キューバ(4位日本)
女子 日本  ソ連  韓国 
1980年 モスクワ    西側ボイコット  
1984年 ロサンゼルス  男子  アメリカ ブラジル  イタリア 
女子  中国 アメリカ  日本 
○ 岡山大学、岡山東商業高校男子、日本リーグ女子が試合をしたら

岡山東商業高校男子は県内では無敵の強豪でインターハイでベスト16。
1970
年、岡山東商業男子と倉紡倉敷(日本リーグ5位)の2セットだけの模範試合がありました。結果は11の引き分けでした。

 岡山大学と岡山東商が練習試合をしました。当時は15点先取でしたが4セットとも78点以内に抑えて、我が岡山大学が勝ちました。アタック練習だけを見ると東商の方が全員同じきれいなフォームでドカンドカン打っており第3者が見れば東商の方が強いと思うでしょう。しかし試合となると教えられたことしかできない応用のきかない東商に対し、アタックフォームもバラバラで個性的な、考えるバレーのできる岡大の方が強かったのです。
ネットの高さ・身長等が違うので一概には言えませんが、当時の岡山大学は日本リーグの女子には勝てたと思っています。

○ ネットの高さ

ネットの高さは、実は6人制と9人制で大きく異なります。全体的に見れば、9人制の方がネットの高さが低いです。
 まず6人制ですが、小学生は男女ともに200p、中学生女子は215p、中学生男子は230p、高校生女子は220p、高校生男子は240p、一般女子は224p、一般男子は243pです。
つまり全日本女子は224p、全日本男子は243pのネットの高さでプレーしているということです。
 つぎに9人制ですが、小中学生は男女ともに190p、中学生女子は200p、中学生男子は215p、高校生女子は205p、高校生男子は225p、一般女子は215p、一般男子は238p、家庭婦人、いわゆるママさんバレーは205pとなっています。

○ 日本バレー黄金期

東京オリンピック(1964年)からモントリオールオリンピック(1976年)が男女とも黄金期であったと思います。私が大学1年(1967年)の時インカレに出場しましたが、1学年上に中央大学の横田、日体大の森田淳悟(のちに日本鋼管)がおりすでに有名でした。大古(のちにサントリー)も1学年上(東芝学園)です。その頃は中央大学が実業団より強い時代で小泉勲(のちに日本鋼管)、木村憲治(のちに松下電器、日本バレーボールリーグ機構代表理事)、三森泰明(のちに日本鋼管、フライングレシーブの考案者?)、横田泰明(のちに松下電器)の試合を目の当たりにし、レベルの違いを感じ、これまでの単純なパス、トス、アタックだけのバレーからコンビネーションバレー、考えるバレーを研究したものです。
 岡山大学が西日本大会準決勝で対戦した福岡大学にはのちに新日鐵(日本リーグ)に入り主将も務めた綱脇隆二、中村良二がいました。

 東京オリンピック以後,日本が考案した戦法を挙げると次の通りである

Bクイック

1966年,日本男子ナショナルチームの考案による。この戦法はAクイックの変型であり、Aクイックの直上トスに対して、ネットに平行に流れるトスを使用するものである。この考案により時間差攻撃がより複雑化された。

・パックアタック

1967年,中央大学バレーボール部考案。アタックライン後方からの攻撃は不可能であると思われていた当時の常識を打ち破ったものであり、ワンマンエースをフルに活用するために使用された。日本のナショナルチームがこれを使用した国際試合は、1977年のワールドカップからである。

・一人時間差(森田淳悟)

1969年,日本体育大学バレーボール部考案。時間差攻撃は複数で行うが、この戦法は囮も攻撃もすべて単独で行うものであり、日本のナショナルチームがこれを採り入れたのは1970年である。

バレーボールというとポイントを上げるアタッカーが目立ちますが、強いチームには必ず名セッターがいました。全日本男子の猫田勝利 全日本女子の河西昌枝、中田久美、竹下佳江 等々。岡山大学最強チームのセッター・・・それは私です。

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